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創造力は失敗量に比例する。これは、芸術大学での教育に数十年たずさわってきた私の一つの見解である。近年「子供の創造力を育む」ことの重要性があちこちで叫ばれている。それはきっと大事なことなのだろう。しかし、創造力を育むなどという(思い上がった)ことがいったい誰にできるのだろうと一方で思う。時代の流れの中で「子供の創造力を育む」一助となるべく設定されたのが美術館ワークショップで、最近では同様のことが地域の文化施設や小学校でも頻繁に行われている。アーティストが課外活動のゲスト講師として、ワークショップを実施する。確かに、その道のエキスパートによるものなので、よりホンモノに近い内容や質を子供たちが経験できるという効果は大きい。この点は押さえつつ、ここでは子供ワークショップを別の側面から考えてみた。
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ワークショップには、綿密なプログラミングが必要である。手順を踏めば、時間内に完成するように計画されている。しかし相手は子供だ。計画どおりにプログラムが進行するとは限らず、さまざまなアクシデントはつきもので、予想外のことは多々起こる。その一つは失敗である。「完成品のモノの質」という点で判断すれば、失敗は失敗なのだろうけれど、「作業プロセスの質」という観点からみれば、悪戦苦闘した分だけ作業の質は高かったし、それはワークショップの「偶然性」や「遊び」的側面がうまく機能していたとも言える。「遊び」は子供ワークショップのキーワードだ。
「遊びは人間の本質だ」と言うまでもなく、たしかに「遊び」のない大人はつまらない。まして子供にとっては「遊び」は生きるすべてかもしれない。子供時代にお題目のついたお勉強はたくさんはいらないと思う私は、子供ワークショップでは大人目線の目的を設定したり、教えたいとか、伝えたいとは極力思わないことにしている。それはちょっと不遜なことだと思っている。目の前の材料で遊び夢中になる。失敗したり成功したり、時間を忘れ、繰り返し遊び続ける体験こそが大事だ。
しかし、現実的に限られた時間や空間の中で、時間を忘れることは難しいし、失敗して事故を起こすことも管理責任上難しい。だからおのずと学校や美術館という制度の中でできることは最初から限られている。でも本当は時間を忘れてしまうことや、失敗ばかりすることを許したい。これが本当の意味でできるのは、家庭だったりする。その例をいくつか。染色を教えている私は、「布が染まっていくこと」の面白さを伝えるという主旨のワークショップをすることがある。たしかに小学校でクレパスや絵具に慣れ親しんだ子供たちにとって、染料はその扱いの不自由さも含めて目新しい材料で、染色は新鮮な技法である。しかし、染料はそんなに珍しく、日常から遠いものかといえばそうでもない。思い出してみよう。カレーをこぼして衣服に着けた「黄色」はうこんという植物染料のしわざで、洗濯ではなかなか落ちなかったこと。なすびの漬物にはみょうばんを加え、そのアルミ成分効果で色の鮮やかさを出していたこと。お正月にいただく栗きんとんはクチナシの実で黄色く着色したこと。黒豆を煮るには、煮汁の中にさびくぎを入れ、鉄媒染で黒色を際立たせたこと。これらは全部「家庭の染色」なのである。
芸術表現の一つとして染料を用いた芸術的プログラムより、黒豆を上手に煮ることのほうが、実は染色ワークショップの本質に近いのかもしれない。染色は美術科のプログラムでもあり、生活科でもあるのだ。少し前までの日本では、日常の家庭の中に染色はごく普通にあった。染色以外にもう少し広く考えてみても、ワークショップ的なことは、日常生活の中で、子供に割り当てられる家庭の仕事としてたくさんあった。障子の張替えは「和紙を貼ろうワークショップ」だし、料理を作りながら包丁で怪我したことは「包丁で切ってみようワークショップ」。植物を育てたり動物を飼育したりすることは、息の長い「飼育ワークショップ」だろうし、山で採取した葛やアケビの蔓で遊んだことは「バスケタリーワークショップ」だ。子供は家庭や地域の中で遊びと作業の行き来をしながら成長する。
こう考えてみると、家庭教育でしてきたことは大きい。でもこの結論ではつまらないし、今はやりの日本新家族主義を標榜しているようなので言いたくない。言いたいのは美術館や学校や組織的なシステムができることはある意味限られており、そこでできることは、「子供の想像力を育む」ことの一端にしかすぎないことだ。その点をまずは謙虚に理解しておきたい。そしてできるだけ子供にとって意味のあることを用意したい。それは簡単にできてしまうものではなく、むしろちょっと難しくて危険もはらんだもののほうが楽しい。「楽しいチャレンジ」があると直感で判断すればのめり込んでくる。こどもは天才だから。そしてお膳立てした当の私は筋書き通りにいかないことにハラハラしつつ、我を忘れて没頭しているその全身全霊ぶりに不覚にも感動する。つまるところワークショップは両者にとって「成果よりも経験」でなくてならないのだ。さらに言えば、多少指を切っても、失敗して泣いても、けんかしてもギリギリまで放っておく、やり直す時間がふんだんにあるという太っ腹なイベントでありたい。そんなことができれば、子供ワークショップを企画する美術館や公共施設がもっと生き生きした文化的装置になるのではないだろうかと思う。
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創造力は失敗量に比例する。これは、芸術大学での教育に数十年たずさわってきた私の一つの見解である。近年「子供の創造力を育む」ことの重要性があちこちで叫ばれている。それはきっと大事なことなのだろう。しかし、創造力を育むなどという(思い上がった)ことがいったい誰にできるのだろうと一方で思う。時代の流れの中で「子供の創造力を育む」一助となるべく設定されたのが美術館ワークショップで、最近では同様のことが地域の文化施設や小学校でも頻繁に行われている。アーティストが課外活動のゲスト講師として、ワークショップを実施する。確かに、その道のエキスパートによるものなので、よりホンモノに近い内容や質を子供たちが経験できるという効果は大きい。この点は押さえつつ、ここでは子供ワークショップを別の側面から考えてみた。
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ワークショップには、綿密なプログラミングが必要である。手順を踏めば、時間内に完成するように計画されている。しかし相手は子供だ。計画どおりにプログラムが進行するとは限らず、さまざまなアクシデントはつきもので、予想外のことは多々起こる。その一つは失敗である。「完成品のモノの質」という点で判断すれば、失敗は失敗なのだろうけれど、「作業プロセスの質」という観点からみれば、悪戦苦闘した分だけ作業の質は高かったし、それはワークショップの「偶然性」や「遊び」的側面がうまく機能していたとも言える。「遊び」は子供ワークショップのキーワードだ。
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「遊びは人間の本質だ」と言うまでもなく、たしかに「遊び」のない大人はつまらない。まして子供にとっては「遊び」は生きるすべてかもしれない。子供時代にお題目のついたお勉強はたくさんはいらないと思う私は、子供ワークショップでは大人目線の目的を設定したり、教えたいとか、伝えたいとは極力思わないことにしている。それはちょっと不遜なことだと思っている。目の前の材料で遊び夢中になる。失敗したり成功したり、時間を忘れ、繰り返し遊び続ける体験こそが大事だ。
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しかし、現実的に限られた時間や空間の中で、時間を忘れることは難しいし、失敗して事故を起こすことも管理責任上難しい。だからおのずと学校や美術館という制度の中でできることは最初から限られている。でも本当は時間を忘れてしまうことや、失敗ばかりすることを許したい。これが本当の意味でできるのは、家庭だったりする。その例をいくつか。染色を教えている私は、「布が染まっていくこと」の面白さを伝えるという主旨のワークショップをすることがある。たしかに小学校でクレパスや絵具に慣れ親しんだ子供たちにとって、染料はその扱いの不自由さも含めて目新しい材料で、染色は新鮮な技法である。しかし、染料はそんなに珍しく、日常から遠いものかといえばそうでもない。思い出してみよう。カレーをこぼして衣服に着けた「黄色」はうこんという植物染料のしわざで、洗濯ではなかなか落ちなかったこと。なすびの漬物にはみょうばんを加え、そのアルミ成分効果で色の鮮やかさを出していたこと。お正月にいただく栗きんとんはクチナシの実で黄色く着色したこと。黒豆を煮るには、煮汁の中にさびくぎを入れ、鉄媒染で黒色を際立たせたこと。これらは全部「家庭の染色」なのである。
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芸術表現の一つとして染料を用いた芸術的プログラムより、黒豆を上手に煮ることのほうが、実は染色ワークショップの本質に近いのかもしれない。染色は美術科のプログラムでもあり、生活科でもあるのだ。少し前までの日本では、日常の家庭の中に染色はごく普通にあった。染色以外にもう少し広く考えてみても、ワークショップ的なことは、日常生活の中で、子供に割り当てられる家庭の仕事としてたくさんあった。障子の張替えは「和紙を貼ろうワークショップ」だし、料理を作りながら包丁で怪我したことは「包丁で切ってみようワークショップ」。植物を育てたり動物を飼育したりすることは、息の長い「飼育ワークショップ」だろうし、山で採取した葛やアケビの蔓で遊んだことは「バスケタリーワークショップ」だ。子供は家庭や地域の中で遊びと作業の行き来をしながら成長する。
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こう考えてみると、家庭教育でしてきたことは大きい。でもこの結論ではつまらないし、今はやりの日本新家族主義を標榜しているようなので言いたくない。言いたいのは美術館や学校や組織的なシステムができることはある意味限られており、そこでできることは、「子供の想像力を育む」ことの一端にしかすぎないことだ。その点をまずは謙虚に理解しておきたい。そしてできるだけ子供にとって意味のあることを用意したい。それは簡単にできてしまうものではなく、むしろちょっと難しくて危険もはらんだもののほうが楽しい。「楽しいチャレンジ」があると直感で判断すればのめり込んでくる。こどもは天才だから。そしてお膳立てした当の私は筋書き通りにいかないことにハラハラしつつ、我を忘れて没頭しているその全身全霊ぶりに不覚にも感動する。つまるところワークショップは両者にとって「成果よりも経験」でなくてならないのだ。さらに言えば、多少指を切っても、失敗して泣いても、けんかしてもギリギリまで放っておく、やり直す時間がふんだんにあるという太っ腹なイベントでありたい。そんなことができれば、子供ワークショップを企画する美術館や公共施設がもっと生き生きした文化的装置になるのではないだろうかと思う。